創業者野村徳七と野村貿易100年のあゆみ
野村貿易グループ100年のあゆみを当社グループの経営理念体系の基ともなった創業者・野村徳七の言葉やエピソードを交えてご紹介します。
前史 1872 – 1916(明治5年 ~ 大正5年)
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1大阪商人道と武士道
野村貿易の創業者・野村徳七(二代)が薫陶を受けた父・初代野村徳七と母・多幾の教育とは・・・
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2近代的な証券業を始める
野村徳七は、時代に先駆けて近代的な証券業を始めます。それは・・・
<創業者の言葉>
・信は万業のもと
・利を争わず義を争う
・自己の利益より顧客の利益を先にす 等々
第1章 野村徳七の海外事業 1917 – 1945 (大正6年 ~ 昭和20年)
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1驀直進前1
証券業で成功した徳七は海外での事業を決断します。
南洋で始めた事業の経緯とは・・・ -
2共存共栄
野村徳七の南洋での事業は地元との共存共栄を図り発展していきます。その姿とは・・・
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3貿易事業の拡大
南洋との輸出入で始まった貿易もアジア各地に拡大していきます。
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4ブラジル農場
南米ブラジルで日系企業第一号となる農場経営も決断します。
<北条時宗と驀直進前>
驀直進前という言葉の歴史上のエピソードです。
<野村財閥と社章>
野村系企業が使用する社章の由来とは・・・
第2章 戦後の興隆 1945 – 1975 (昭和20年代 ~ 昭和40年代)
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1新設合併-新たな船出-
戦後、野村グループは財閥解体の対象となり、野村貿易も新たな船出をします。
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2海外展開
新設合併から昭和40年代にかけて野村貿易は海外拠点も合弁事業も拡大していきます。
<戦後の野村グループ>
戦前、野村合名会社のもとに財閥を形成していた野村グループの現在。
第3章 苦難を超えて 1976 – 2004 (昭和51年 ~ 平成16年)
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1商社冬の時代
商社冬の時代と言われた厳しい時代を乗り越える。
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2アジア通貨危機
アジア通貨危機に始まる商社の苦境を全社一丸となって生き延びる。
<野村徳七の胸像>
野村貿易東京本社受付にある野村徳七胸像のエピソード
第4章 未来を創る 世界に生きる 2005 – (平成17年 ~ )
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13部門制と国際事業部
総合商社の看板を維持し、多岐に亘る事業展開を続けています。
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2経営理念体系
創業者の理念を振り返り、経営理念体系を新たにしました。
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3創業100年を迎えて
2017年5月7日、創業100年を迎えました。
前史 1872 – 1916(明治5年 ~ 大正5年)
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1大阪商人道と武士道
野村貿易の創業者・野村徳七(二代、幼名・信之助)は1878(明治11)年8月7日、父・初代野村徳七とタキ夫妻との間に生まれました。父・初代野村徳七は1872(明治5)年に両替商「野村商店」を開業しましたが、これが現在の野村系企業の始まりと言える出来事です。
父・初代徳七は生粋の大阪商人であり、大阪商人道を身につけ、信義を重んじ、堅実な商いを旨としていました。また義理堅く家族思いで誠意にあふれた人物でした。母タキは武士の家に生まれ育った気丈な女性であり、子供たちに厳しい武家の教育を施しました。また仏教に深い信仰をもっていました。
信之助はこの両親の薫陶によって、一生を貫く倫理観が醸成されました。父・初代野村徳七
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2近代的な証券業を始める
野村徳七は1904(明治37)年に「野村商店」を継承すると、時代に先駆けて近代的な証券業を始めます。当時、証券業者はまだ博打打ちと同じと見られ、世間の人々に、株屋、相場師と呼ばれて蔑まれていました。徳七はそんな証券業界に近代的経営を取り入れることで挑みます。欧米に外遊し最先端の証券業を学び、旧習を打破していきました。
最も特筆すべきことは調査部の設置と、その調査結果を顧客に知らせる「大阪野村商報」の発刊でした。綿密な科学的調査研究を行い、その調査結果を公表していく情報誌を発刊して、顧客が安心して株を持てるようにしたのです。顧客に対して誠心誠意の対応をし、共存共栄していこうとする“顧客とともに栄える”経営方針は、現在の野村貿易グループの経営理念体系に繋がっています。
また、丁稚奉公の多かった時代に、大学卒の人材や女子社員の採用も行ない人の教育に力を入れました。近代的経営の野村商店は信用を得て発展していき、日露戦争(1904~1905)から第一次世界大戦(1914~1918)にかけて、莫大な財産を有するようになりました。
証券業者として成功した野村徳七は、このあと産業分野への進出を図るようになります。最初に考えたのが海外事業でした。野村徳七
<創業者の言葉>
- 基本的精神
- 「信は万業のもと」
「利を争わず義を争う」
「自己の利益よりも顧客の利益を先にす」
- 人材の育成
- 「人材を養ふこと、有為の人物を蓄へ、適材を適所に配することは、寧ろ資本力以上の大なる財産である。」
「企業は人である。野村に勤めてよかったと従業員が思うようにしなければならない。」
- 企業家精神
- 「企業家は、七割方の科学的確実性を握ったならば、それでもって、あとの三割の不確実を、突飛し飛躍するだけの勇気がなければならぬ」
- 業務推進の心構え
- 「常に一歩前進することを心がけよ。停止は退歩を意味する。」
「敢然として我等は我等の信ずる道に向かって鋭意驀進すべきである」
- チームワーク
- 「各部各係は各々責任を以てコトに當り、幹部は身を以って之を率い、店主の統制下に協力一致打って一団と成り」
- サービスの心構え
- 「単に取引を行えば任務終われりとする如き器械的労務を為すのみならば、必ずしも各位の力を待たずして可なり」
- 海外へのロマン
- 「南方には豊富な太陽の光がある。そこに自然の作物がある。」
出典:蔦葛(徳七自叙伝)等。2010年7月現野村貿易株式会社宮下社長が就任直後、社員に語りかけたとき引用した言葉
第1章 野村徳七の海外事業
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1驀直進前 -海外進出の決断-
野村徳七は1916(大正5)年4月、大阪商船が企画した台湾・南洋方面への約2ヶ月の旅に参加します。南洋で徳七は製糖工場や椰子農園、ゴム農園等を精力的に見学し、帰国後、南洋事業の調査研究に没頭します。「護謨と椰子」という200ページに及ぶ本を書き上げ、熱帯農業の専門家を現地視察のため蘭領東印度(現インドネシア)に派遣しました。そして売りに出されていたゴム農園の調査結果を受けて、農園買収を決断します。
1917(大正6)年5月7日、野村商店内に「野村南洋事業部」を創設し、同年7月6日、ボルネオのダナウ・サラック農園を買収しました。
これが、野村貿易の源流といえる出来事で、創業日となっています。
野村商店にとって、海外での事業、それも農園経営は全く未知の領域であり、共に経営していた家族や周囲の人々は心配し反対しました。それを粘り強く説得し、強い信念をもって決断しました。野村徳七の好んだ言葉「驀直進前」の精神が強く現れた瞬間でした。
この「驀直進前」で表される開拓者精神こそ、野村貿易が創業者から受け継ぎ、そして、未来に繋いで行く、大切なバリューの一つであり、行動指針となっています。ゴム農園
ゴムの木のタッピング
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2共存共栄 -南洋事業の発展-
ダナウ・サラック農園は、その後に買収した農園とあわせ野村農園と名付けられました。
1920(大正9)年、「蘭領ボルネオ護謨工業株式会社」(後、「野村東印度殖産株式会社」に改称)を設立し農園経営を引き継ぎます。翌年には、現地のスモールホルダーの生産する濡れゴムを精製する工場も建設しました。1924(大正13)年には「シンガポール野村商店」を設立して、野村農園や精製工場のゴム製品を自らの手で輸出するようになります。その後、油椰子農園やコーヒー農園の経営も行なうようになります。野村の南洋での事業はわずかの期間に多角的な事業となりました。
野村の農園や工場は多くがその地域で最大規模を誇るまでに発展します。
その事業の特長は、現地労働者の福利厚生に気を配り、地元住民とも共存共栄を図るものであり、それが発展の大きな原動力でした。
当時のジャワ領事館の領事が語ったという言葉があります。
「蘭印の日系会社はただ単にそこで物質を買い受けて日本に送るとか、日本から持ってきて売るとか、いわゆる中間ブローカーであります。しかしそれに対して野村は本当にその土地に資本を投下して、政府の方針に従い、そして現地との共存共栄の仕事をやっているのです。」
野村徳七は野村グループの中でただひとつ「野村東印度殖産株式会社」の社長の座だけは最後まで降りませんでした。それほど情熱を傾けてきた南洋事業でしたが、戦後、野村グループがGHQによる財閥解体の対象の一つとされたことで、南洋の資産は没収され、事業は終焉しました。徳七はその7ヶ月前、1945(昭和20)年1月15日に、南方に残った人々を気にかけながら、その生涯を閉じました。ゴム精製工場
左の建物は農園内病院
油椰子農園
<創業者の言葉>
驀直進前は、創業者・野村徳七の座右の銘ともいうべき言葉です。
もとは、13世紀元寇のおり、元軍来襲に備えて様々な国土防衛策を実行した北条時宗が、いよいよ元軍が襲来したとの知らせを受けて、師事していた禅僧・無学祖元に会いに行ったときに授けられた言葉です。「十分な準備ができたのであれば、迷いや煩悩を捨て去り、自分の信ずるところに従ってまっすぐ進め」という意味で、時宗はこの言葉で腹をすえ、家臣団を一丸となって国難に立ち向かい、戦い抜きました。
伝北条時宗像(満願寺)
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3貿易事業の拡大
国内では、野村合名会社が野村東印度殖産との間で輸出入を始めましたが、その後、「ヤマト土地産業株式会社」を設立して、貿易はこちらの「商事部」で行なうようになります。
初期の事業の主なものは、ゴム、コーヒー、植物油脂の輸入でしたが、貿易額が飛躍的に増大して事業も拡大し、中国、韓国、タイ、ベトナム各国に多数の支店を有するようになります。なお、名称は「ヤマト産業株式会社」、さらには「野村殖産貿易株式会社」へと変遷しました。 -
4ブラジル農場 -日系企業第1号-
1925(大正14)年11月27日、ブラジルでコーヒー園を経営したいと投資家を求めていた人物が徳七を訪れました。徳七は熱心に話を聞き、調査を一任し、その調査結果を受けて、ブラジル・パラナ州の山奥にある農場の購入を決断しました。
当時、日本からブラジルに移民が始まっていましたが、移民を待っていたのは奴隷と変わらぬ苛酷な労働環境でした。徳七のねらいは、単に企業利潤を上げるのみではなく、資本家して投資を行い、農場を開いて、そこに日本人移民をいれて、移民哀史を終わらせ、子弟の育成にも当たらせることにありました。野村徳七は時代を先駆けた社会起業家でもありました。
密林に覆われていた土地を開拓した「野村農場」はブラジルに進出した日系企業第1号でした。また、現在まで続いています。ブラジル野村農場にある徳七の胸像
<野村財閥と社章>
海外進出を始めた1917(大正6)年に野村商店を株式会社化、翌年1918年に大阪野村銀行(現りそな銀行)を設立し、本格的に産業分野へ進出を始めます。1922年には野村合名会社を設立して傘下企業を管理するようになり、野村は財閥を形成していきました。
野村貿易の社章は野村家の紋章である蔦にヤマト(二重のヤマ形と”ト”)をあしらったものですが、野村徳七が野村グループの事業上のしるしとして選定したものです。
野村財閥は戦後解体され、それぞれ独立し野村グループ自体はなくなりましたが、”野村”の名を残す野村證券、野村殖産、野村建設工業、野村不動産、当社、などは、色はそれぞれ違いますが、社章に今も「蔦にヤマト」を使用しています。
第2章 戦後の興隆
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1新設合併 -新たな船出-
戦後、野村はGHQにより財閥解体の対象となり、傘下企業はそれぞれ独立していきますが、資産の没収もあり苦難の門出となりました。
「野村東印度殖産株式会社」は南洋の資産が没収されて存続が難しく、海外から引き揚げてきた役職員は「大彌産業株式会社」を設立しました。
「野村殖産貿易株式会社」は他部門を独立させて商事部のみとなり「野村貿易株式会社」となりました。
いずれも貿易を目指していましたので、1951(昭和26)年5月25日、大彌産業と野村貿易は新設合併し、「新野村貿易株式会社」が誕生しました。
初代社長となったのは大彌産業社長だった植田喜代治。シンガポール野村商店や野村東印度殖産のマラヤ地区総支配人として活躍した人でした。新野村貿易の船出にあたって植田社長は次のように社員に呼びかけます。
『ここに新野村貿易株式会社は、新しい運命を背負い、輝かしい希望を載せて、その第一歩を踏み出した。しかしながら進む路は決して平らかではない。急坂をよじ登らねばならぬ時もあろうし、断崖に立ちすくむ事もあるだろう。否、それは激しい競争場裡の常の姿と覚悟せねばならぬ。その時頼むは長い間築き上げられた信用と承け伝えた気鋭の同志的結合である。更に若しこの基盤の上に我々の献身と英知とが用い尽くされるならば、険道は容易に克服せられ、進んで難事を難として意識しない高邁な精神が打ち建てられるであろう。かくてこそ礎はいよいよ固く、名は七洋に遍き日を迎え得るのである』財閥家族の資産差し押さえ
毎日新聞社「昭和史第13巻 廃墟と欠乏」より植田喜代治社長
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2海外展開
新野村貿易は、設立から5年後には「新」をはずして「野村貿易」となりました。そして昭和30年代(1955-1964)に飛躍的な成長を遂げます。
社員は皆若く、これからの野村を創るという思いを共有して果敢に挑戦しました。植田社長は強いリーダーシップを発揮し、毎年長期間海外に飛んで現地を視察し事業の可能性を探るとともに、派遣している駐在員・出張員と面談して激励しました。
海外拠点は、昭和40年代(1965-1974)までに27店を数えるまでになり、海外合弁事業も昭和30年代に5件、40年代には12の合弁会社を設立しました。その事業も繊維、化学品、水産、金属と多彩であり、地域別でも東南アジアを中心にアフリカ、豪州、南米に8ヶ国と拡がりを見せていました。
東南アジア諸国を中心に多数の合弁会社を設立することは、この地に軽工業を育成し、雇用、所得の増加を促すことに繋がりました。この時代、南北問題という先進資本国と発展途上国の経済格差の問題が注目されていましたが、合弁設立という野村の投じた一石一石は途上国の発展を促し、格差是正に貢献しました。当時の合弁開所式にはタイ国王ご夫妻のご臨席を賜ったり、インドネシア大統領をご招待したこともあります。合弁工場
<戦後の野村グループ>
戦後GHQにより、野村グループは解体対象の財閥に指定されたため、それぞれ独立していき、戦前に野村合名会社のもとに形成していた野村グループはなくなりました。
野村殖産貿易株式会社は商事部が野村貿易株式会社となりましたが、不動産と農林部は独立して野村建設工業株式会社となりました。後、野村殖産株式会社と分離し、どちらも存続しています。
野村銀行は1948年大和銀行となり、2003年には他行と合併してりそな銀行となりました。野村證券株式会社からは野村不動産株式会社と(株)野村総合研究所が独立しています。他に野村鉱業株式会社からの流れでは北興化学株式会社と野村興産株式会社が現在まで続いています。
なお、現在、野村グループという呼び方は、野村證券の持株会社野村ホールディングス株式会社がその傘下企業のみを称して使用しています。
第3章 苦難を超えて
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1商社冬の時代
1973(昭和48)年の第一次オイルショック、1978(昭和53)年の第二次オイルショックと続き、低成長局面に入った日本で、不況に苦しみ採算の悪化したメーカーは口銭率を引き下げたり、商社に頼らない直接取引をするところが増えてきました。さらに1985(昭和60)年9月のプラザ合意では一挙に円高ドル安が進み、日本の輸出産業や商社は深刻な打撃を受け、日本の産業構造に大きな変革が起きました。その後もバブル経済からその崩壊と揺れ動き、商社が受けた影響は甚大なものがありました。
野村貿易も売上高・利益ともに落ち込み苦しみましたが、もともと事業構成のバランスが良かったことから、輸入、三国間取引の拡充を進めるなどして乗り越えました。 -
2アジア通貨危機
1997(平成9)年、タイの通貨切り下げに端を発するアジア通貨危機では、東南アジアに巨額の投資をしていた商社は甚大な影響を受け、多くの商社が構造改革に取組んで生き残りを図りました。合併・吸収という再編の波をかぶるところもありましたが、野村貿易は単独で生き延びる道を選び、全社一丸となって構造改革に取り組みました。
<野村徳七の胸像>
野村貿易株式会社東京本社の受付には、野村徳七の胸像があります。
古いものであちこち傷みが生じていたため、大阪本社で大切に保管していたものですが、2004(平成16)年後半、ある有志の提案で修復して表に出すことになりました。活動チームが組まれ、胸像の台座には、徳七の足跡について説明文を作成して埋め込むこともしました。
こうして新しくなった胸像は今も日々お客様と社員を見つめています。
このチームの活動は、厳しい時代に社員が自発的に動く種々の魁ともなりました。
第4章 未来を創る 世界に生きる
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13部門制と国際事業部
野村貿易は中規模の商社ですが、様々な商材を扱う総合商社です。アジア通貨危機のあと、総合商社の看板を降ろし専門商社となった会社もありましたが、野村貿易は維持いたしました。
2005(平成17)年4月、新中期経営計画「リバイバルプラン」実施年度からフード、ライフ、インダストリーの3部門制となりました。
食品を扱うフード部門、主に衣料品や寝具を扱うライフ部門は、ともに川上から川下まで一貫した事業展開をしております。特にライフ部門では、1995(平成7)年にノムラ・フォトランコ、2007(平成19)年にノムラ・タンホア・ガーメントという縫製工場を設立し、川上での事業展開を強化しました。
また、2008(平成20)年には、既存の商流・商材に留まらないグローバルなインキュベーションを目的とした国際事業部を新設しました。国際事業部で開拓した事業はいくつか実を結んでおり、2013(平成25)年には、北海道で温泉熱を利用した農産物の生産販売を行なう「野村北海道菜園」を設立しました。フォトランコ工場
野村北海道菜園
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2経営理念体系
2012(平成24)年5月には、経営判断の基軸となり、従業員の行動指針となる経営理念体系を制定しました。
経営理念体系の制定のために設置された「経営理念体系構築委員会」では、自分たちの価値観の源流を学ぶため創業者・野村徳七の関連書籍を委員全員が読み込み、そのうえで、野村貿易の存在意義、価値観、ミッション等を明らかにし、それを最も的確に表現する言葉に凝縮していきました。経営理念はそれまでにもありましたが、それをさらに発展させ、いつの時代にも通用するものとして構築しました。
また、経営理念体系浸透のための持続的な取組みの数々もあらかじめ計画され、制定直後から実行に移されました。海外店で経営理念について語る宮下社長(当時)
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3創業100年を迎えて
2016(平成28)年度から新たな中期経営計画「中計2017+1(プラスワン)」からスタートしました。中計の基本方針は、経営理念のもと、①良質な資産の拡充、②人財の育成、③経営システムの向上としており、その重点施策の実行に取組んでいます。
そして、当中計の2年目となる2017(平成29)年5月7日に野村貿易は創業100年を迎えました。
厳しい風雪の日々に立ち向かい歴史を紡いで来られた先人への感謝を新たにして、創業精神を次世代に繋ぐべく、ビジョンである「未来を創る 世界に生きる」を実践し、更なる歴史を積み重ねてゆく所存です。